檀徒になるということ

 「檀徒(だんと)」とは、一般に「檀家(だんか)」と言っていますが、そのお寺の宗派の教えを信じて先祖の墓所を設けて供養を任せ、お寺を支えている方(家)という意味合いになります。檀家さんがご先祖の供養をお任せしている寺のことを、「菩提寺(ぼだいじ)」といいます。

 最近、メディア等で「檀家は面倒」などとおっしゃる方がいらっしゃいます。菩提寺との付き合いが面倒と思われるのでしょうか。面倒と思われる方がいらっしゃる一方で、菩提寺に足しげく通ってお参りされていらっしゃる方も大勢いらっしゃるでしょう。多くの菩提寺の側としては、面倒と感じられる方にも、そうでないと感じられる方にも、同じように接し、同じお願いをされているはずです。しかし、受け取る方は色々ですね。

 本来、檀徒になるということは、そこに信仰が伴っていなければなりません。当山は天台宗の寺院です。従いまして当山の教義はすべて天台宗の教義によるものであり、当山の法儀はすべて天台宗の法儀によるものであります。851年に慈覚大師円仁創建以来ずっと天台宗の教義に則って存在しています。

 実際には、すべての檀徒の方に対して天台宗の教義を説明し、ご納得いただいているわけではありません。中には当山が天台宗の寺院であることをご存じない方もいらっしゃいます。もちろん、他宗派、他宗教の信者さんでは困ります。しかしながら、今後檀家さんにかかわる仏事を行う上で、当山ではすべて天台宗の教義に則った法儀により行われ、天台宗僧侶としてご法話をさせていただくことになります。

 檀家さんになっていただくということは、それをご了承いただくということになります。もっと言うと、「住職の話を信じていただけますか?」ということなのです。

 他宗派、他宗教の信者さんでは困ると申し上げたのは、葬儀や法事などの後でお話をさせていただいた際に、「その教えは間違っている」「私は仏を信じない」などと思っていらっしゃる方のお心まで私たちの言葉が届きません。他の信仰のある方には、その方々のお心へ届くお言葉をお持ちの方が他にいらっしゃるわけですから、その教えを拠り所としていただくことが、その方にとってお幸せだと思うのです。ただその場合は、当山の墓地の使用はできません。今まで檀家さんであったとしても、残念ですが墓地を他所へ移していただくことになります。

 このような「信仰」上のご了承をいただければ、それ以外に特別なお付き合いが必要なものではありません。もちろん、お正月やお盆の行事のご案内はさせていただきますし、葬儀の際には法儀に則った法要を行うために時間と場所の確保のお願いもすることになります。しかし、それ以外のお付き合いのお願いは、お会いした時には少し雑談でもしていただければ嬉しく思います。

そもそも仏教とは?

 「今から2500年前にインドでお釈迦さまが説かれた教え」などということは皆さんご存じと思いますので、改めてご説明は不要かと思います。

 「仏教」というその言葉の意味として「仏になるための教え」の意味であることもご存じのことでしょう。

 では、「仏」とは? イメージとして浮かんでくるのは、

  • お釈迦さまが苦しい修行をして悟りを得て仏となったという歴史的なこと
  • 仏像のこと
  • 亡くなった人のこと
  • 不思議な力を持っている
  • 優しい人                など。

 「仏になるための教え」といった時の「仏」とは、「苦しい修行をしてなるもの」であり、苦しい修行をした結果到達したものとは、無我無欲な存在。ひょっとしたら廃人のような感じ。あまり良いイメージとはいいがたいものなのではないでしょうか。苦しい修行をした結果が「廃人」ならば、そんなことはしたくないですね。たとえ不思議な力(神通力)を得たとしても、無欲なので自分のためには使わないでしょうし。

 欲を捨てなさい、執着から離れなさい、煩悩を断ぜよ・・・といいます。しかし本当にすべての欲がなくなってしまって、睡眠欲も食欲もすべてなくなったら死んでしまいます。その状態が究極の仏であるということではなく、欲を欲として、執着を執着として、煩悩を煩悩としてキチンと認識し、それをコントロールしなさいということだと思っています。周りの存在を観ずに自分の欲を通そうとすると、何事もうまくいきません。人間関係が上手くいかないという苦しみが生じてしまいます。

また、慈悲の心を持ち、常に優しさをもって周りに接し、様々なことに「ありがたい」と思える感性を身に着けることが出来たら、「ありがたい」と思うたびに自分が「幸せである」と感じることが出来るようになるはずです。きっと周りの存在も力を貸してくれるようになるでしょう。

 本来私たちは様々なことに感謝をしながら生活をしてきました。畑の神様や山の神様、海の神様や川の神様、家の中にも台所の神様や便所の神様まで、ありとあらゆる場所に神様がいらっしゃって、その都度、収穫が出来たことに感謝をし、食事が出来たことに感謝をし、「生きられる」ということに感謝をしながら生活をしてきました。しかし、現在は非常に便利な世の中になり、感謝をしなくても、携帯端末を操作すれば翌日品物が届く時代です。しかし本当に感謝は不要なのでしょうか?

 コンビニのレジで「ありがとう」と言いますか? ファミレスで「ごちそうさま」と言って帰りますか? 代金を支払っているのだから当たり前で感謝などする必要はないという意見を耳にします。もちろん、支払った代金はその方が働いて得たものでしょうから、自分の努力の対償であり、自分が努力して得たものを使ったのに感謝するのはおかしいということなのでしょう。その考えが正しいとか正しくないとかいう前に、損していませんか?ということなのです。当たり前に出来ることを当たり前に考えていたら、そこから何も得ることはできません。むしろそこに不具合が起きたときには「不満」になります。なぜいつものようにできないのだとクレーマー誕生です。文句を言うかどうかは別にして、心の中に大なり小なりマイナスの感情が起きるのではないかと思います。

 様々な「あたりまえ」の裏側に、様々な「努力」や「犠牲」があることに目を向け、「あたりまえ」に起きている事柄に対しても感謝をしていくことで、「あたりまえ」が「ありがたい」になり、小さな幸せが増えるのではないかと思うのです。良い悪いは別にしても、「レジでありがとうはおかしい」という考え方は、この小さな幸せを放棄している考え方であると思わざるを得ません。

 あたりまえに便利な世の中は、素晴らしい世界であるはずなのに、そこに暮らす人たちは感謝をするスキルを磨くことをやめてしまったために、素晴らしい世界に暮らすという幸せを感じることを放棄してしまったことになるのではないかと思っています。

 あくまでも私の考えですが、お釈迦さまがおっしゃっていることは、このようなことに通じているのではないかと思うのです。すべての人たちが、慈悲の心をもって行動し、各々が各々に感謝をしながら生活をすることは、そこがすなわち仏国土、仏の世界になるのだということ。仏というのは、心の中に存在する喜怒哀楽等の様々な要素のうち、慈悲という一つの側面における言動、その瞬間の心の面持ちを「仏」と呼んだのではないかと思うのです。そしてそれは、信仰の有無を問いません。その素敵な面持ちの状態の人を私たちは「仏」と認識するのです。ですからキリストさまも私たちから見れば仏さまですし、スーパーマンもウルトラマンも「仏」です。心の中が慈悲だけになっている存在が名実ともに仏ですが、私たちは慈悲の心を持ったその瞬間「仏」になることが出来ていたのです。「仏」になっていた時、実は私たちは大なり小なり喜びや幸せを感じていたのではないでしょうか。

 「仏になるための教えとは、幸せになるための教えです。

 少なくとも私はそう信じています。

 様々な要素の感情を持つ人間ですから、慈悲の心を持ち続けることはなかなか難しいことです。しかし、不平不満のマイナスな感情に占拠され続けるのではなく、日々の生活の中でもお互いに支え合いながら慈悲の心を持ち「ありがたい」「おかげさま」という感情で少しでも長い時間留まっていられるように、たとえ小さな幸せであっても、少しでも多く感じられるよう、心持ちを整えていこうとするのが仏教です。